水の記憶 制作について 展示予定


 久々に絹本による制作を行っています。80号Fサイズ(幅145.5cm✕縦112.0cm)あります。また昔通り、絹枠に張っての制作ですので、表具の段階で絹に縮が出ることも考慮して、最終寸法の80Fサイズになるように一回り大きな枠での制作を行っています。使っている絹は、昔、縁あって手に入れることができた4尺幅のもの、使われている糸も太く、荒い目、硬い撚りのものです。

画像は、絹が水分を含むことによってたわみ、床面についてしまうことを回避するために空中に浮かせて乾燥を行っている様子です。

「水の記憶シリーズ」の制作については、ホームページに解説のページもありますが、あらためてこの取り組みについて紹介したいと思います。

先日来、このサイトで取り組みを紹介してきた「日月四季山水図屏風」のような古典的手法による倣作、もしくは制作は、私自身の、日本画と呼ばれる絵画とはいったいどんな絵画なのだろうという問いについて、私が惹かれる、もしくは憧れる何かを実作することで、その私が感じた何かの意味、在処を確かめようとするものです。加えて今に生きる制作者として、はなはだ微力ではありますが、それらが未来に向けて、興味をもった誰もが望めば体験、使用ができるような共有に向けた取り組みになればとこうして紹介をしています。

これまで使われてきた和紙や絹などの支持体、筆や刷毛などの道具、絵の具や膠といった存在、また表具といったいわば一体の環境といえるようなものまで含めて、出会うことが出来た素晴らしいと私が感じたこと、この国の文化の一部、特別だと思ったことなどを言葉にしたいと取り組んでいます。

絹は、基本的に絹枠に張って描きます。

必要な大きさの木枠(完成時に西洋絵画の基準サイズ、パネル寸法に合わせる場合、絹の収縮を考慮して布の縦方向により余裕をもたせた内寸にして枠を制作します)を作り、その枠に糊を付け、絹を貼り付けます。紹介している大きさだと、4尺幅の絹を横使いで張っています。結果、横方向により余裕をもたせた枠を制作しています。

上記画像は、絹枠に張った絹全体に水を塗っているところです。枠に張った絹にはドーサ液を前もって塗り、乾燥させています。ドーサ液を塗ることにより、このあと使う墨や絵の具が安定に絹に定着するようになります。

画像で何故水を塗っているのかといえば、画面全体を湿らせ、これから塗る絵の具を自然に暈すためです。

準備しておいた墨を計画した場所に必要と思われる分量を置いていきます。もちろん墨は摩ったばかりを用います。安定な定着、意図通りのコントロールには、墨は摩ったばかり、絵の具も溶いたばかりを使わねばなりません。何故なら、水の中でそれら墨の粒子や絵の具の粒子を動かし、安定に定着させる作業こそが日本画らしい「暈し」を実現することと私が捉えているからです。


続いてきめ細かく、白い墨と言って良いような丁寧に溶いた胡粉を計画した場所に、墨と同様に量をコントロールしながら置いていきます。


乾刷毛(水の中の絵の具の粒子を動かす道具)を使って、湿った画面の中で思うように墨の粒子や胡粉の粒子を動かし、時に混ぜ、また混ざらないようにコントロールして行きます。注意するのは、画面の水分量です。半乾きになれば、置いた墨や胡粉は粘りを出し、ブラシで擦ったような表面となります。あくまで水の中で自由に動いた粒子が静かに沈殿して定着するのを目指します。そのことによって得られる絵肌にこそ意味があると思っているのです。

琳派による「垂らし込み」表現に見られる価値観が手がかりです。「垂らし込み」については、得られる滲みが特別と表現される方もいらっしゃいますが、私はそのことよりも、結果的に誰が行っても得られる絵具の発色や、出来上がる絵肌に価値を認めて、もしくは求めてきたのではないかと思っています。そこには、入木道に示される筆という道具の使い方や、その求める結果について、また王朝美の復活とも言われる装飾性といった言葉を裏打ちする描画技術の存在があると思っているのです。それらを貴族階級(時間を自由に使うことができる人たち)ではなく、より大衆が感得できる表現としての「垂らし込み」といったことを思っているのです。

<これらのことについて、私のホームページの以下にそれぞれの要素について紹介しています>

最初に画面に塗った水分、加えて使用する絵の具とともにもたらされた水分ですが、それらは時間の経過とともに絹という素材自体が吸い込み、吸収し、また同時に気化していきます。また墨、カーボンの表面を覆う膠、絵の具の表面を覆う膠は、水分と触れる時間が長くなればその水分を吸収し、粘りを出し始めます。結果的に絵の具の粒子は、水の中で自由に動けなくなり、次第に粘った状態になります。結果、いわゆるブラシで擦った、擦り付けたような表現になっていくのです。それは私が望んでいる表現では有りません。またこのことでわかるように、絵の具を溶く折に使う膠について、一度絵の具の粒子に付けた膠が、水に容易に溶け出さない性質を持つことも重要であることがわかると思います。このことは、膠の焼付といった技法があることも参考になるでしょう。

私が望む「水の中で自由に絵の具の粒子を動かし、静かに沈殿させた表現」を実現するのに必要な時間は、ある意味で普遍の時間ではないかと思うのです。平安時代も、室町時代も、江戸時代も、そして令和も。筆で線を引いたり、絵の具を塗ったりはある意味で見やすい世界です。一方で、大きな画面でどのようにこれらのことを昔の絵師の方々が実現してきたのか。それは水の性質、具体的な時間との戦いになります。湿度や温度、季節と密接な関係も想像できます。

橋本関雪、明治生まれの画家による大きな画面での墨と胡粉による暈し表現。いったいあれはどのようにして実現したのかといった疑問を持ったことが有りました。必要な材料や道具、技術自体は理解できたのですが、はたして自分一人では、作業に必要な時間がどうしても足りないのです。粒子の細かい墨や胡粉といった絵の具を暈すために有効な乾刷毛を求めた絵の具屋の主人に、暑い夏では広い面積では間に合わないといった愚痴を話した折。主人は「昔、偉い絵描きさんはこうした暑いときは、避暑に行かれましたし、弟子もいましたから」と、話してくださいました。確かに水を引く弟子、絵の具を溶く弟子がそれぞれいれば、あとは師匠が乾刷毛を動かす、描くだけと納得することになりました。こう考えると、画塾の存在も価値観の継承に意味があったと思うのです。入室弟子という言葉があるそうですが、師匠のそうした作業を画室に共に入り手伝う弟子のことだそうです。もちろんこのおり特別な技術、道具の使い方などの伝承も行われることになります。

日本画とは何かを考えるとき、確かに特定の材料を使うことのみでは理由にならないかもしれません。しかし、基本として三層から四層で絵の具を使おうと試みることは、ある意味でお刺身の文化に通じるような素材との関係性を感じさせます。素材の善し悪し、和紙や絹、絵の具、そして描くときの水の使い方などにも、そのそれぞれに包含、作られてきた価値観があるのです。もちろん和膠に求めた性質も。それらにこの国らしさ、文化の現れを見つけられるかもしれないと思っているのです。
一方、計画性だけ、プロセスだけでは寂しいと思った折、この制限にも思われる水の性質が作者の身体・肉体を如実に反映することにも気づきました。何度か触れたこの普遍的な「水の時間」が、否応なく制作において、私の小賢しい脳の関与を減らす働きとなり、身体と表現の関係に新たな出会いをもたらすように思うのです。

そんな存在として、
「水の記憶シリーズ」を制作しています。

さて、作品はこの後、作業ごとの乾燥を経て、何層かの作業、水を活かした表現をより加えて完成に向かいます。最後は裏打ちという、和紙を裏から貼り補強する作業、加えて最終形態となるパネルに貼り込んだり、掛け軸になります。今回はパネルに貼ることで完成予定です。


このほか、新作の六曲一隻屏風(和紙貼り)に水の記憶シリーズを新たに描き、この展示対面には小さな<ダンシング松(仮称)>屏風を飾る予定(こちらも制作中)、そして先に紹介した絹に墨で描いた「水の記憶シリーズ」、もちろん群青によるそれもこの秋、倉敷美観地区、中央に流れる倉敷川からすぐの場所で展示予定です。

展覧会案内

森山知己個展(仮称)

場所:きび美ミュージアム
〒710-0046岡山県倉敷市中央1丁目4-22 「くらしき宵待ちGARDEN 」内
休館日:月、火曜日(祝日の場合は振替)

会期:2025年10月10日(金)から 11月9日(日)

水墨絵画、金屏風に描いた若竹なども加え、施設の茶室、二階のガラスケースなども使用して展示予定です。会期中は胡粉を使った缶バッチ制作や、杉材団扇に描くワークショップ、私のトーク、また1日だけですが制作VRの展示なども計画中です。

★先に紹介した大三島美術館での個展と会期がすべて重なっています。また、恒例の倉敷屏風まつりの会期とも重なっています。倉敷屏風まつり(10月18日・19日)に合わせて会場トークを実施しようかと考慮中です。

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