描き方で見る


 広島県立美術館の窓から見た縮景園の様子。スマートフォンで撮影しました。建物の影になっている近景と、日の当たる遠景のコントラスト、昔のカメラであれば、手前の樹木が暗さに潰れてしまうか、もしくは遠景が白飛びしてしまうか、露出設定の大変むずかしい撮影のはずです・・・。ところが、現在の携帯電話での写真撮影では、勝手にカメラアプリがその露出差を吸収して双方そこそこバランスを取った写真にしてくれます。帰宅してパソコンのモニターで大きく表示したそれは、すべてが見えすぎてなんだか思ったより平板な写真になってしまっていました。

何故、カメラを向ける気持ちになったのか。何に惹かれて撮影した写真なのか、自分にとって何が主題であったのか。記録され、写ってしまった写真を前に自分自身の記憶を求めて、写真加工アプリで整えてみました(トリミングし、写真の明るさを調整して細部が見えすぎていた手前の木をシルエット的に見せることにしました)。

先に書いたように、スマホのカメラが自動で行った処理。昔、写真がうまいと言われる要素のひとつにこうした露出に関する配慮がありました。写真の役割、写真が持つ記録性がもっとも重要視された時代です。その後、テクノロジの進歩とともにレンズの選択や、絞り設定を使った被写界深度、シャッター速度を用いた方法など、撮影者による表現するための道具としての側面が大きくクローズアップされるようになりました。そして今ではその多くが自動化される事になりました。隆盛する画像、写真系SNSの例を持ち出すまでもなく、誰もがスマホを持ち、もれなくついてくるカメラ(写真)は、多くの人にとって当たり前の自己表現手段となったのです。写真に関わる諸々は自動化され、ブラックボックス化されました。そして加工(どのようにありたいか、どのように見せたいか)も、アプリを選び適用することで実現されます。デジタル化に加え、広い意味でのAIは、記録性に加えて、表現のためのツールとしての写真に当初求められた、構図や色彩といった絵画的な要素に対してアシストを行い、また撮影ピクセル数の増加、解像度の向上は、撮影したあとでの加工やトリミング等に対応できるようになったのです。加えて、写真の特別性として考えられた時を止める機能、瞬間を切り取る機能についても動画からの切り出しに対応することで、手ブレといった要素からも開放されることになりました。

個性を表現する「写真」の技術的側面での充実は、今日まで表現に必要な機能を具体的な技術の言葉に置き換え、それをテクノロジを使って実現してきたからにほかなりません。

デジタル化、コンピューターを用いることが当然な時代に、多くの表現者は、それら(言語化・実現され実装された機能)から選択と組み合わせを行って実現したい表現を作ることになります。

そして迎えた生成AIの時代。

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昔々、絵師の格付けに歴史画が描けることが大きく意味をもった時代があったそうです。

時代考証を踏まえ、まさに見てきたかのように必要なシーンを描き、多くの人に言葉を使わず必要なことを伝える(納得させる)絵を描く力です。(由緒や来歴、権力の証拠となる存在である)必要な「記録」が絵師によって作られた・・・・・。

狩野派や土佐派、いわゆる画塾が行っていた指導とはどういったものであったのか。伝えるためのパーツを粉本(今で言うならCGにおけるパーツライブラリー)として共有し、それをリアリティー(整合性)を持って組み立て、必要な情報(絵・ビジュアル)に変える事のできる能力を指導していたと言い換えることができるかもしれないと思うのです。

どんな絵が欲しいかは、その仕様書(言語的説明)によって絵師に伝えられたわけです。

現在のCGによるビジュアル表現がその成り立ちや用いる要素との関係について問うと、案外、昔の絵師はさしずめ今日の生成AIのように働いていたのかもと思ってみたりするのです。



さて、

広島県立美術館で行われている児玉希望展、見たいと思っていた展覧会でした。また今回ではありませんが、つい先日、同じく広島県三次市の奥田元宋・小由女美術館で見ることができた奥田元宋さんの若い頃の作品たち。この二人が川合玉堂の指導を受けていることも気になっていたのです。どちらも基本に忠実な技術に基づく表現をされています。まさしく川合玉堂の薫陶を受けた二人なのです。

和紙や絹など支持体、墨・絵の具の解き方とその用い方、筆、刷毛、水の使い方。そして運筆。私のサイトで紹介している川合玉堂の著した「日本画實習法」(東京 二松堂蔵版 昭和2年)、当時玉堂がイメージしていた日本画について、またその学び方について詳細に書いてあります。運筆の基本がどういったものであるのか、また写生の役割とは。

詳細に描き込まれた風景に見られる植物などの要素たち、竹はこういうもの、ススキはこういうものと、描き方を知っているからこそ見えた風景、作り上げたい世界。それぞれがレイヤー状に積層化し、疑うことなく描けるからこそ、手に入れることができた平明さのようにも思えます。描き方で対象物を把握し、そしてそれを組み合わせ、再構成して組み上げる作画。

逆に、では描き方に迷うのは何故か。

芸術は「感覚を創造する」という言葉がふと浮かんできました。感覚を揺り動かす方法は様々なのです。

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